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2007年10月

第六十九話・女をもっといかせるために「平安貴族に見習う」

女は、男が帰るとシャワーをした。愛し合った後の匂い。はじめの頃は、それが愛着のある好ましい匂いに思われた。しかし、それも長続きはせず、体内に残された精液を一滴残らず洗い流したい、そんな気持でシャワーをした。カラダを流してさっぱりしてみると、きまって「あの映画」のDVDが観たくなった。映画――イタリアが舞台の、恋愛物語だった。男優が、女優の耳元でささやく、その言葉ひとつひとつが、うっとりと甘く、ゾクリと刺激的だった。特別なベッドシーンもないというのに、観ているだけで、知らずと、女の花弁(はなびら)が濡れてしまう、そんなムーディな映画だった。

自分の実際のベッドシーンは、さほどのこともなかった。いつも一緒にいるわけでなないので、マンネリというのでもなかった。することをして、男が帰る。そうすると、妙に空っぽな気持になった。だから、知らずと映画が観たくなった。

映画のなかの言葉が、ヴァギナをしっとり濡らす。そして、たまらないほど興奮する。だから、その衝動のままに、女は裸体になって、オナニーをした。太腿にクッションを挟み、ゆっくり腰を動かした。それで物足りなくなると、ベッドの角にクッションをあて、そこにヴァギナを押し付けた。男優のセリフを聴きながら、なんども絶頂感を味わった。少し前に、ホンモノのセックスをしたことなど忘れたかのように、深いオルガスムスに達した。

自分の付き合い方は、きっと『通い婚』というものだ。それなのに、ワクワクすることもなく、セックスもたまらなく良いということもなかった。それはどうしてなのだろう……。女は、男優のセリフを聞きながら、ふと、気がついた。言葉がないからではないか? 映画のシーンのように、言葉巧みにささやかれたなら、同じにセックスをしても、感じ方も変わるのではないか? 男が帰った後も、余韻たっぷりで、空っぽな気持に見舞われないで済むのではないか、そう思った。(※へ続く)

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(※続き→」)通い婚。平安時代の貴族の男女のスタイルである。御簾で隔てられた男女が、手紙をやり取りし、歌を詠み交わすなど、それなりの過程を経てはじめて結ばれる。手紙なり歌なりの言葉の交流があって、そこで心が通じてはじめて、セックスをする。さぞかし、女は熱く燃えたことだろう。なにしろ言葉は、女にとって、どんなテクニックにもまさる“前戯”であるから。

それにしても、日本男性は、いつから言葉を前戯に使わなくなったのだろう。少なくても、平安時代には、映画俳優もかなわぬほど、言葉巧みだったはずだが? 平安貴族は、恋のために時間を費やすことができた。香を焚き染め、衣装を調え、女をいかに「いかすか」のために最善を尽くせたのだから、現代の男に同じになれとは言わないないけれど……せめて、女をもっと感じさせたいなら、「言葉」が女を濡らす大切な前戯であることを頭において欲しいものだ。ホントは日本人の男だって、甘い言葉で女を濡らすことができるはずなのだ。いや、日本人の男だからこそ、ムーディに女をいかせることができるはずなのだ。 (Photo/Furuse Model/Luliha)

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第六十八話・女のカラダをもっと楽しむために・古事記にみる人間の性欲

Img_0112 女は一人になると、いつも思った。自分の心のことを、そしてカラダのことを。一人になって、ふと寂しさを感じる。そうすると、性の衝動が、どこからともなって沸き起こってくる。自分のなかに女があることを、性器があることを、性情動があることを、疎(うと)ましく思ってみても、それは抑えきれるものではなかった。寂しいからいけないのだろうか? それとも、自分は性欲の強い、下品な女なのだろうか? そう思い悩み、性の要求から逃れようと、シャワーをする。しかし、けっきょく鏡の中の自分に突き動かされてしまう。鏡の中で、女は乳首に指をあてがい、そしてヴァギナに指を這わせているのだった。

一時間、いや、うたたねをしたのは半時間くらいだろうかと、女は、ソファーで間を覚ました。その前の半時間は……シャワーをし、鏡にカラダ映し、ソファーで自分を可愛がるためにすごした時間だ。ゆるやかな、リラックスできる時間。けれども熱くて刺激的な時間。自分で自分をいかせる……もう、やめようと思いながら、それでもやめられない、心地良く、いやらしい行為。男に愛されていないわけではなかった。週末には好きな男と会って、たっぷりセックスをしている。それで満ち足りているはずなのに、寂しくなると性衝動に駆られ、そのことばかり思ってしまう自分が、たしかにここにいるのだった。(※へ続く↓)

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(※続き→)元来、人間は、非常に性衝動の強い動物種である。なかでも日本人は、歴史を通じて「動物としての人間」にきわめて正直であった。それを、認めようとせず、否定して抑えるべきと考えるのだとしたら、それは近代に入った西洋思想の影響であろう。古代において男女は、自然の中で自由に交わったということは前述した。前述の『風土記』でも、性についての表記はみつかるが、日本を造った神々の話『古事記』に至っては、その大半が「人間の繁殖力」の物語りだと言っても、言い過ぎではないほど、“性欲”が引き起こした事件が連続するのである。

神々でさえ性欲があり、そのパワーで国を造り、また災いを引き起こしたのだ。そして、そのことを大らかに、朗らかに、あけっぴろげに「神々の逸話」として記述したのが『古事記』とも言えるのだ。学校の歴史でマジメに「日本の古典文学」とてし学ぶ、そのイメージから実際の内容は相違が大きいのではないだろうか。私個人として、とくに興味を引かれるのは、近親婚の話である。なにより猫の遺伝、繁殖の知識と重なる部分が多い。『古事記』の中で、父系譜の近親婚は許されても、母系譜の近親婚はタブーとされる。つまり、腹違いの兄妹(父親が同じ)は恋愛の対象となり、種違いの兄妹(母親が同じ)は恋愛のタブーであるということなのだが、猫の場合では、前者より後者のほうが奇形が生まれやすく、同様にタブーなのだ。近親でのセックスは、ポルノビデオの一大ジャンルであるようだが、そのようなテーマが存在するのは今に始まったことではなく、古代から受け継いだものかもしれない。

と――堅くマジメな、日本を造った神々の話と思われがちな『古事記』。しかしながら、それを精読するなら、日本のスタートは人間の性欲で始まったのだと、つい関心してしまう。着物をはじめとする日本の文化が、ここまで特有で優れた文化であるのは、性を否定せずに、大らかに明るく受け止めてきたことにあるのだろう――そう私は考える。けっして暗いところに隠してネチネチせずに、自然な形で受け止めてきた日本人の性文化。いま、それをあらためて認識してたいただきたいものだ。

男女間のセックスにおいては、女はもっと明朗に自分の要求を示していい。オナニーについても、『自分と向き合う貴重な時間』とみなし、心ゆくまで楽しんでいい。なぜなら、私たちは、日本人であるのだから。大らかに明るく性を自己表現してかまわないのだ。そうすることで、心の曇りが晴れて、毎日の生活が、少しでも豊かで楽しいものになるだろう。そして、今まで以上に性の感受性は高まるはずである。たとえば、女が挿入時にオルガスムスを得られない(中でいけない)という悩みも、少しは解消されるだろう。まずはオナニーを否定せずに、そこでしっかり自分の性の感受性に磨きをかけることである。間違いなく、欝(うつ)な気分は解消するであろうから。(Photo/Furuse Model/Luliha)

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猫のセックスライフはこの本『猫のなるほど不思議学』

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第六十七話・女が「なかでいく」ために・古代の男女に習う

男は、女から離れると、じきに寝息をたてた。毎度の就寝前の“お勤め”。それが済むと男は、すっかり満足したように、深い眠りに落ちた。男はいつもそうだった。女は、男の寝息を確かめ、それから精液で濡れたヴァギナに手をあてた。大きく弧を描くように手を押し付けて、ゆっくりヴァギナをもみほぐした。しだいに快感が深まり、手の動きといっしょに腰が動いた。物足りないカラダを慰める、いつものオナニー。セックスの後の一人H。最後はクリトリスを攻め、それでいけるとことまでいく。それで初めて、セックスの全過程が終りになる。(Photo/Fruse Model/Luliha)

女は思った。いつも同じベッドで、同じ男と、同じ動きを、同じように繰り返す。感じる処も、感じるタイミングまでいっしょ。もう、感じているのかどうかもわからなかった。声を出すタイミングまで決まったようで、順序どおりに反応しているにすぎなかった。挿入でいけるわけなどなかった。オナニーなしに、満足いくオルガスムスは得られなかった。だから女は、古典の本に書いてあったようなセックスがしてみたいと思った。女は御簾の中で、通ってくる男を待つ。歌を詠み交わし、そして御簾の中に男を招き入れる。場合によっては、侍女が付き添う寝室で、初めての男との愛を交わす。どんなに刺激的だろう……それなら「なかでいけるのだろう」と、ため息をついた。(※へ続く)

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(※)女が思うような「御簾越しの恋愛」というなら、とくに平安貴族の恋愛ということになるだろう。では、もっと古く、そして一般の男女はどうしていたか? 

たとえば八世紀初頭の『常陸国風土記』を読むなら――自然と合体した、より動物的なセックスをイメージすることができる。同著の「筑波山」の記録によれば、筑波山(女体山)では歌垣が行われ、多くの男女が集ったと云う。『歌垣』とは、現代でいうところのコンパである。神聖なる山で、恋愛成就のためのパーティが行われたわけだ。パーティと言えば、聞こえはキレイだが、実際にには性交のためのパーティである。自然の奇岩や怪岩をベッドにして、男女はそこで一夜の恋、あるいは乱交を楽しんだのだ。

古代人に、永遠のカップル、まして「結婚し添い遂げる」という感覚はなかった。野山で気が向くままに交わり、ときに一対一で、おそらく祭りなどの場合には、複数で交わる。さらにセックスの対象は、兄妹や父娘などの近親も含めた、あらゆる異性であった。

文化が進展し、社会常識が人間を支配するようになり、人間のセックスはとても窮屈(きゅうくつ)な方向へ向かった。男は一人の女で満足しなければならないし、女は男まかせでセックスしなければならない。とにかく制約だらけになった。そこで刺激を刺激として飽きずに受け止め、それなりのオルガスムスを得るのは至難の技である。

できるものなら、古代の男女のように、自然の中へ飛び出し、自然風景に溶け込む形でオルガスムスを味わいたいものだ。単純明解に、自然をベッドにセックスしてもいいだろう。しかしながら、そのさい、男は挿入=セックスという考えを捨て、女を自然の中で弄(もてあそ)ぶつもりで、じっくり濡らしてほしいものだ。とはいえ、現代では、自然の中で容易にベッドインなどできないだろう。せめて、ときには気分をかえて、野外デートを楽しみたいものだ。ベッドの上だけがラブシーンでは、あまりに淋しすぎるのだ。

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第五十九話・恋とエクスタシーが一致するとき

女が、その男に会ったのは、二年前のことだった。電話で何度か話したことのある男。それ以来、ずっと憧れてきた男。女の願いが叶って、ようやく駅の改札口で、その男と待ち合わせをした。そうして初めて会ったそのとき、女のカラダに不思議な現象が起きた。男を一目見るなるに、ヴァギナが蓮の花が咲くようにパッと開いた。それと同時に熱い感覚が走った。そして、ヴァギナはたちまちにショーツをベタベタに濡らした。いままで、鈍感な処と思ってきた、女のあそこが……。まるで何かにとり憑かれたように、自らの意志で開き濡れたのだ。そして、それを敏感に感じ取ったのだ。

男との衝撃的な出会い。鈍感なはずの、ヴァギナが自ら意志を持った日。それほどまでセックスアピールに満ちた男。それから女はその男のことばかりを思った。思うたびに、ピンクの花びらが開き、蜜を垂らした。だから、狂ったように、ヴァギナを可愛がった。なんどもなんども、クリトリスでいった。そして男に抱かれる日のことだけを思った。そうして、ついにその願いが叶った日……。そして、それからの二人の生活……。しかし、今では、その全てがウソのように色褪せてしまっていた。

女は、もうその男に抱かれたいとは思わなかった。何も感じなかった。少なくても心で感じることができなかった。触れる、挿入する、擦り合わせるという、物理的な刺激によって、たしかにカラダは反応をみせた。しかし、心には何も快感が起きなかった。むしろ、一人になって、自分で自分のカラダを愛してやったほうが、心が空虚にならずに済んだ。

できるものなら、心と性感覚を一致させたい。誰しも思うことである。なぜなら、それが一致したときにこそ、最高のオルガスムスに出会えることを知っているから。ところが、そんなことは、人生の中で数えるくらいしかないのかもしれない。

女は、だから心の中で、密かに新しい恋を探し続ける。男に抱かれるより、もっと効率よくオルガスムスを得る方法も身につける。とはいえ、ヴァギナが自ら開き濡れるような恋には、おいそれと出会えるものではないことを、じきに悟る。そしてヴァギナを自分で可愛がったとしても、一時の快楽にすぎず、温もりも力も与えてくれないことを、じきに悟る。

人間は、性の喜びを味わうことに長(た)けた動物である。性の快楽のために、大きな労力を払い、そのために進化してきたといっても言い過ぎでないほど、たくさんの性の楽しみを持った。けれども、神はそれほど甘くはなかった。快楽をたくさん味わったからといって、愛をたくさん持てるというものでもなかった。快楽を得るのはとても簡単であった、器具を使っても良いし、乱痴気パーティをしても良い。セックスは、いくらでも転がっている。もう食べきれないほど溢れている。なのに、恋は道具では得られないし、愛は探せば探すほど、どこか遠くへいってしまうのだ。(Photo&Model/Luliha)  

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第五十五話・チラリズムはなぜ男の性欲をそそるのか

夜の交差点。オレンジ色の街路灯。その下を、タイトスカートの女が通り過ぎた。スカートのスリットから、白い太腿がチラリと覗いて見えた。男は思わず振り返った。そしてその女の後を追った。信号が赤になり、女は足を止めた。男は、女の隣に並んだ。視線をやると、幸運にも女の胸が見えた。大きく開けたブラウスから、ふくよかな乳房と、その谷間が見えた。女は男の視線に気づいたらしく、青信号になるやいなやに、早足で男の前から消えていった。

男は、先ほど見た女の画像――太腿や谷間、その残像を振り払うようにして、自宅の玄関ドアを開けた。深夜の帰宅だった。いつものように、妻は先に休んでいた。リビングに入り、隣の和室をそっと覗いた。襖の間から見える光景、それは……妻の寝姿だった。亭主を待ちくだびれた、そうとでも言いたげに、妻は全裸で眠っていた。オナニーでもしながら眠ったのだろうか……久しく抱いてやっていない妻。「すまない」とは思ってみても、いっこうに性欲の沸かぬ妻の寝姿に、男はため息をついた。

前述したように、慣れた雌雄の間では、性欲が減退する。これは動物として自然なことである。多様性を保たねばならない動物の宿命なのであるから。上の即興小説には、この「セックッスレな男女」ということ以外に、もう一つのテーマがある。それは、チラリと見えることの性刺激である。場合によっては、どんな卑猥な全裸シーンよりも、強い性刺激となることがある。俗に言う「チラリズム」であるが、では、なぜ「チラリズム」は、そこまで男を挑発するのだろう?

猫を観察すれば、その答えが簡単に出せるのである。猫が獲物を狙うとき、どんな様子の獲物に夢中になるか? じつは――猫は、獲物がチラチラと見え隠れするときに、他のすべてを忘れ、その獲物に気持を集中させるのだ。これが動物本来の狩猟本能であることは言うまでもないだろう。なら仮に、その獲物がデン!と、無神経に猫の前いたら、どうなるか? 猫はただぼんやり、その獲物が動くまで眺めているだろう。チラチラ見え隠れする、だから、猫の目に刺激となり、狩猟本能がかき立てられるのだ。

だとすると、人間のオスは、まだ狩猟本能を忘れてなかったわけだ。そのうえ、大きな大脳皮質を持った人間のオスは、想像力で見えない部分を補って欲情する。だからこそ余計にスカートのスリットが魅惑的なのだし、胸の谷間が美味そうに見えるのだ。

慣れすぎた男女間に、魅惑の時間が消えそうになったら――ぜひ、このチラリズムの心理を応用して、関係を修復していただきたいものである。女は、セクシーな衣装を着け、男が隠し持った狩猟本能と、想像力を奮い立たせる。それが、男にとって最高の悦びになることは間違いないだろう。セクシーな衣装、それは着物であるかもしれないし、ミニスカートかもしれない、または下着かもしれない。いずれにしても、チラリと覗くカラダが、それなりに美しくなければ効果はないので要注意である。 (photo/Furuse model/Luliha)写真はクリックで拡大します

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第五十二話・女が中でいくために「男の覗きの心理」

男は、女陰(ほと)を指で開いた。女の吐息を耳で確かめながら、そこに器具を差し入れた。いつも自分を温め癒してくれる、そして熱く締めつけてくる、女のあの部分。まだ見ぬ世界を思うだけで、男の気持は熱くなった。ゆっくり奥まで器具を差し込み、そしてそれを開き、留め具を固定した。そうして、そのざっくり開いた器具の口から、女のカラダの中を覗(のぞ)き見た。カラダの中に注がれる男の視線を感じたのか、女は突き出していた腰をくねらせた。

覗きのシーン。壁穴に目をつける――運がよければ、美女のシャワーシーンが見え、運が悪ければ血まみれの殺人現場が見える。いずれにしても、思わずドキリとするのが、覗きシーンである。小説でも映画でもよく使われるシーンだ。人間以外の動物で、覗くことで性刺激を得る事があるのだろうか? 考えてみても何もピンと来るものがない。そもそも動物が「覗き」をするものかどうか、よくわからない。少なくても猫は覗きはしない。しない理由は、さほど視力がよくないからだ。聴覚が何より発達した猫が、『聞き耳』を立てて、メス猫の声を聴き分けたとしても、覗きで興奮するとは考えにくい。

数ある医療プレーの中で、「どうして?」と思うものの一つに、産婦人科で膣を調べるときに使用する器具を使う行為がある。これこそ「覗き」である。しかも公認の覗きである。女が「さァどうぞ」と股間を提供してくれない限り、器具をヴァギナに挿入して広げ、膣の中を覗くことなどできないのだから。それを覗く男の姿を想像すると、ちょっと滑稽になるのだが、しかし、覗かれる女の身になれば、けっこう気持良いものかもしれない――産婦人科のことを思い出さなければという『前書き』をつければである。

どうしてそこまでして、男は女を見たいのだろう。これは女には理解できぬ心理だ。この行為については、「人間だけの変態行為ではない、動物によくあることだ」という言い訳もできない。しかし――じつは、「女陰の奥底まで覗きたい」という心理は、歴史を通じて男に共通らしい。

江戸時代の性風俗の読本に、その行為を見ることができるのだ。それには、いかにして女の膣の奥を覗くべきか、その手法が詳しく書かれている。たとえば――「普通に覗いても、陰唇と膣口が見えるだけである。だから、女を納得させたうえで、うつ伏せに寝かせ、尻を高く上げさせる。そして、股を開くだけ開かせる。そのうえで男は、陰唇を指で開き、片手を膣の下方へ入れる、そうして中の肉襞(ひだ)を上へ引き上げるようにすれば開(ぼぼ=ヴァギナ)の内の肉が、左右に開いて子宮の奥までよく見える」と云うものである。

女なら、どうしてそこまで書くのかと呆れるだろう。しかし、その本には、さらにこう断り書きがしてある。「見せぬ所を見たがるは、普通の心理であり、男の十人のうち九人は、開(ぼぼ)の中を見たく思うものだ」と。女性器をできるだけ事細かに眺めつくし、そのもっと奥まで眺めて興奮したい。それは、たいていの男が同様だ、ということらしい。しかし、そのよう言われても、男の子供心とスケベ心を弁解しているようにしか聞こえないだろう。

とにかくも、女は見せることで興奮して濡れる。男は、それを見ることで欲情するわけだから、ギブ&テイクで、バランスがとれるということなのだろう。その究極が器具を使った「覗き」プレーなのだろう。方法を問わず、女は見られたいし、男は見たいのだ。それで愛が深まり、オルガスムスが得られるならば、女は存分に見せればいいし、男はじっくり眺めればいいだろう。

「覗き」は男主体の行為であるから、女はされるままになるしかないが、できれば他の場合には、女が主導権を握ったうえで、自分の望む行為を男に仕向けたいものだ。男の「子供心」と「スケベ心」が、女のリクエストを拒否する可能性は低く、むしろ喜んでそれに応じてくれるだろう。女が「中でいく」ために、男の子供心とスケベ心を最大限に利用するのは、けっして悪いことではないはずだから。(photo&model Luliha)

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第五十話・現代女による「「男の品定」・女を満足させるには?

男は、とにかく女を誰にも渡したくないと思った。自分によがりついて、荒い息を吐く女を、心から愛(いと)しいと思った。だから、夢中でペニスを突き上げた。女は喘(あえ)いで、自分の肩に爪をたたてきた。深く深く挿入し、膣の奥まで激しく突き上げた。たちまち、あの一瞬にたどりついた。脳髄が絞り上げられるような快感。しかし急激に鎮まる感覚。それから解放されると男はテイシュを抜き取り、女に手渡そうとした。しかし、女はまだカラダをくねらせたまま、男の足に絡(から)みついてきた。「ねェ、もっとちょうだい」

女は、なぜ満足しなかったのか。自分は、あれだけ汗をかいて御奉仕をしたのに……と思ってみたところで、所詮、男と女、カラダの構造が異なるのだから仕方のないことである。このような話は今に始まったことでもなく、たとえば性風俗花盛りの江戸文学にも、多く見受けられることである。

江戸時代は、さまざまな文化を円熟させたが、性文化も同様である。性の伝授本のなかでも、興味深いのは、女の視点で書かれた話もあるということである。女帝・皇極天皇(実際には称徳天皇のことらしい)が口述したとされる(パロディ)本のくだりは、まことに「女の言い分」が、わかりやすく記されている。

それを私流に意訳すれば――女の品定めをする男は多いが、その反対は無く、女はどんな下手な男とセックスをしても、その不満を隠している。だから言わせてもらえば、男というものは、女のオルガスムスを見極めることができないことが、ほとんどである。とくに下手な男というものは、ただせっかちに、深く男根を挿入し、奥まで突っ込んで激しく腰を振れば、女が悦ぶと思い込んでいる。そうして、自分だけ先にいってしまって、独りよがりで満足するのが常である。上手な男は、初めは浅くゆっくり抜き差しして、女をもだえさせる。そうして、ほんとうに女がオルガスムスに達するタイミングを見計らい、最後にペニスを深く激しく動かし、女をいかせるものだ。しかし、そういう男はめったにいるものではない……云々、ということである。

男の思い込みを根底から覆(くつがえ)すために、この言葉が最も有効ではないかと思う。それは――男は、いちどセックスから「射精」という目的を消去してみること。

そんなの女の勝手な言い分だ! と言われそうだから、すこしへ理屈を並べて、男を説得したいと思う。人間は、生殖と交尾を切り離すのに成功した、唯一の動物である。繁殖の目的もなく、セックスを楽しむのは、人間という動物種だけである。そもそも女は精子を射精するわけでもなく、そのうえに妊娠の目的外で、セックスをする方が多いのだから、男のように、必ず「いかなければならない」わけでもない。ただ、うっとりと濡れた時間を、ゆるゆると継続するだけでも、十分なのだ。むしろ、そのゆるゆるとした時間を、タラタラと継続する場合のほうが、心地よく満足いくことも多い。

古代のインドや、中国の道教にもあった「教え」には、「“ガンガン”やるのではなく、ゆったり挿入し、男がいきそうになったら、いったん抜く。それを繰り返して、射精ではなく合体を楽しむ、そうすることで女は今までになく悦ぶ……」というがある。いわゆる「スローセックス」は、現代の流行ではないのだ。ただ長ければ良いというわけではない、そう前述したのと矛盾しそうだが、この古代の教えの「長い」のは、射精までの時間が長いのが良いと言っているわけではなく、「ゆるゆると、女のカラダを愛する時間を楽しむ、それが長いのが良い」と言っているのだ。

女を必ず「いかせたい」と思って、一生懸命ピストン運動をするのは、逆効果になりかねない、というわけである。猫のような動物は、挿入から射精まで、わずかに数秒で足りてしまう。なら、メス猫は、欲求不満に陥るのではないか? そうして江戸時代の本のように、下手な男とは何ぞやと、書き記すのではないか……いいや、そんなことはない。猫は、次から次へと男を替えやりまくることで満足するのだから。人間のメスには、叶わぬ羨望の世界にいるのである。 (photo&model Luliha)

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第四十八話・日本女性と着物とエクスタシーの深い関係

女は、今日は、着物にしようと思った。大好きだったあの人に、十年ぶりで会うのだ。こんな特別な日は、着物以外のどんな衣服も似つかわしくなかった。もしかしたら……成り行きで帯をほどくことになるかもしれない。そう思ったでけで、女陰(ほと)が濡れてくるようで、くすぐったくて仕方なかった。とっておきの赤い襦袢に袖を通した。もしかしたら、こんな日が来るかもしれないと、アンティークショップで見繕っておいたものだ。お茶会に行くときより、ぐいと襟を抜いて、艶やかに着付けた。

と――着物ばかりを着ている私は、小説の主人公にも、つい着物を着せたくなってしまう。わずか半世紀前までは、女は、皆、着物をきていた。風土と体型に合致した着物を捨て、西洋の真似ばかりをする現代の日本女性。だからこそ、「中でいけない」という嘆きを多く耳にするのかもしれない、ふとそう思い考えてみた。

日本人は欧米人より「淡白」だと思い込んでいるところがあるが、ぜったいそのようなことはない。これは前述した“ノーパンの文化史”にみるように、日本人は、歴史を通じて性に開放的で、たいへん寛大であったのだ。

とにかく日本ほど、性に肯定的で「あけっぴろげ」な国はなかった。たとえば、日本の春画以上に、性器を緻密かつ、誇張して描写したものは世界中を探してもないのだ。しかも堂々と町で売り買いされ、お茶の間レベルで楽しまれた。春画の性器描写の徹底ぶりは世界に誇れるものであるし、また性行為の描写も完全緻密である。さらに女性の「性のメカニズム」についても詳細に解説されており、現在の性科学者も及ばぬレベルなのである。日本人は、元来“好き者”であると思って間違いない。

日本の性文化の源流は、インドにあったようだ。古くインドでは、「性愛」を、人生不可欠の教養とした。宗教、経済、そして性愛、この三つを人生の大切な要素と考え、マジメに学んだのだ。『カーマ・スートラ』も、きわめてマジメな「性学」の本だ。日本の性文化は「性学」というような堅い物ではなく、もっとくだけた、娯楽的な要素が強い。性を後ろめたく、暗いイメージにしたのは、文明開化以降のことで、西洋の真似をしなければならなかった切ない事情があったからだ。

日本の性文化で特徴的なもの、それはなんといっても「オナニー文化」であろう。恥ずべき自慰行為に“市民権“を与え、あからさまに道具を販売し、その楽しみ方を伝授した。しかも当然のように、女のオナニーが絵画や本のなかで描写された。

あらためて日本の衣類――着物を眺めてみれば、女のオナニーを許容し、また、それを美しく見せることにおいて、着物ほど優れたものはないことに気づくだろう。

着物を着なくなった現代の日本人は、いわゆる「ノーパン」で着付ける着物のことを、「裾さえめくれば、すぐにやれる」衣装だと思ってはいないだろうか。それはあまりに安直な考えだ。女は、うなじを見せ、胸元を見せ、そして太腿をのぞかせ、やがて袖を男にからめる。男は、その女の懐に右手を忍び込ませ、左手で太腿を撫でる……と、着物だからこその悠長な前戯ができるのだ。女は、たっぷりの前戯に腰巻まで愛液で濡らし、それで初めて男は、女の裾を開き挿入する……と、これなら、まちがいなく女も「中でいける」のだ。着物を捨てた日本女性は、同時に性の悦びも捨てたのかもしれない、そんなことを思った。

(photo&model Luliha)

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コラム・女体はなぜ美しいのか

Ruri1_010写真は、ガラスの女体像である。私が彼女――若手ガラスアート作家さんと親しくなったのは、他でもない「女体の美」の表現について意見が一致したからである。

(ガラスアート&Photo 五十嵐 千尋)

左のガラス作品は、彼女が“カラダを張って”制作したものである。石膏型にガラスを流し込んだ作品であるが、じつは自分のカラダ――裸体で石膏型をとったものであると云う。石膏型を見せていただいたところ、なるほど生身の女のカラダの痕跡が残っている。どこかSMの世界に通じるような、痛々しくも生々しい痕跡である。

この世で最も美しいもの、それは女のカラダだ。男を翻弄し、ときに歴史まで変えさせる、魅惑の女体。彼女は、自分のカラダを素材の一つにして、女体の美を表現したのだ。

私が、この「女のカラダ」を書くにあたって、自分の中にある「女」をすべてき使い尽くそうと思った。そして、自分のカラダも文字と変わらぬ素材の一と考え、被写体となることで女体を表現し尽くそうと思った。“カラダを張って”作品に挑む、その勇気は、写真や文章以上に、ガラスアートの女体が語ってくれるのではないかと思う。

女体がなぜ男を興奮させ、また女までも興奮させるのか。それは卑猥だからとか、淫靡だからとか、それだけのものではなくて、自然がもたらしたアート作品だからである。自然――それは、遺伝子の偶然的な組合せが作るということ。女体は、山や湖が美しいのと同様に、天然の産物だから美しいのだ。

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第四十一話・セクシュアルな日本女性・ノーパンの文化史

着物に腰巻。毎日毎時間の衣類がそれである私は、日本文化のことを考える機会も、質問される機会も多く、しらずと頭の中まで“和風”になっている。日本人として、性のことを考える機会はどれくらいあるのだろうか。ほとんどない、考えたこともない、というのが一般的な答えではなかろうか。日本人は淡白なのだろうか? すくなくても男性は、モンゴロイド系のオスとして、ペニスは小さめ、さらに生殖能力も高くはないと報告されている。では、女はどうなのだろう。欧米人は日本女性のことを、しばしば「少女のよう」と形容する。良い意味でも、悪い意味でも「少女」のよう、ということだ。セックスアピールが希薄な、少女のように若く見える日本女性という意味だ。

美術や文学がそうであるように、日本の性文化を円熟させたのは江戸である。じつは、猫についても同様で、「日本猫」は江戸時代に完成されたものだ。猫といえば――江戸の遊女は、格ごとに「金猫」、「銀猫」、「山猫」と分けられた。金猫は上等な遊女、山猫はヨタカなどのフリーランスの遊女ということになる。別に商売でなくても、大奥は卑猥(ひわい)の代名詞のように、秘め事の舞台にされている。

江戸がなぜ、ここまで卑猥なことが繁栄したかといえば、社会の仕組み(参勤交代など)の男性中心の町だったことを頭に入れるのはもちろんだが、そればかりではなく、日本では「女の性欲」が否定されることがなかったからだろう。

女の性欲が否定されるどころか、春画の世界では現実以上に、女は「好き者」」として扱われた。いつも着物ばかりの自分としては、女が(ある意味で)奔放に性を楽しめたのは、着物という、股間が自由空間である衣類の貢献もあっただろうと感じられる。

現代においても、着物好きの女性は、「色、艶」に前向きな興味を示す。すくなくても洋服派ほど、性に無頓着な人が少ないように思う。もちろん洋服も、ヘソ出し(もしかすると土手出し)から、谷間見せまで、男性を性刺激しようという意図が“丸見え”のデザインが流行っており、性に積極的だ。むしろ着物などは、どこも見せるところはなく、襟足(えりあしや)胸元がせいぜいだ。しかしながら、腰巻の中に手をさしのべれば、すぐそこに女陰(ほと)がある、着物にまさる卑猥な衣類はない。一昔前に「ノーパン○○」というものが流行った。喫茶店に始まり高級料理店まで、その応用は幅広かった。日本でそれが一大ジャンルになったのは、もしかすると着物に対する郷愁があったからかもしれない。少なくても、皆が腰巻で着物の時代だったら、成立しない商売なのだ。

パンツにヴァギナを封じ込めてしまう文化こそが、女の性を否定した西洋文化なのである。着物は露出部分が少ないはずなのに、立ち姿そのものが妖艶であるのは、女陰を開放するという基本理念がある衣類だからだろうか。しいていえば、フランス製の下着などは、着物と多少類似したものがあり、女が女である部分を隠すのではなく、露出させることで、より美しくみせるように設計されたものもある。しばしば撮影の小道具として使用しているが、とはいえ、これは一部のメーカーのものに限定された、例外品である。

西洋では女の性欲を否定するばかりか、自慰行為に対しても冷たかった。ところが日本では、女のマスターベションは、江戸の一大産業であり、様々な道具が販売され、その姿は男を楽しませる本となり絵となった。パンツにヴァギナを封じ込める文化が主流の現代において、思い出してほしいのは、日本の女は猫のように、性について奔放であった。そしてオナニーでさえ存分に楽しみ、生活すべてを明るく受け止めてきたことである。

歴史のなかで、とくに男は社会の仕組みのなかで、性欲を抑えることが多かった。ところが女は、たまった男の性欲を受け止めるのにいつも多忙だった。少女のように可愛い日本女性は、じつは性においては少女どころか、世界に誇るべきセクシュアルな人間のメスであったのだ。

(photo&model Luliha)

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