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2007年9月

第三十九話・女も見たい女のオナニー

セックスシーンより、もっと刺激的で、魅惑的なものがあるとすれば、それは女のオナニーシーンだ。本来なら、相手のない虚しい行為であるはずなのに、男は執拗に見たがるし、じつは女も女のオナニーが見たいのである。

前述したように、ほかの動物もオナニーをする。水中生活者のイルカでさえもオナニーをする。しかし、どの動物も性器を擦って刺激するに留まっている。サルの一部は道具を使ってオナニーをするというが、いずれにしても、道具で性器を刺激するにすぎない。

ポルノ映画で観るオナニーシーンは、ただ性器をいじる、バイブを挿入するなど、サルのレベルの安直なものばかり。もし、女自身がオナニーシーンを演出するなら、念入りで凝ったオナニーをやらかすだろう。なぜ、ポルノ映画のオナニーシーンが安直で幼稚かといえば、これも前述したように、男が望む形で、射精する目的のために作られたものだから。男のオナニーは、気の毒にも、とても貧困で単純だ。“生の女”の代用品として映画や写真を見て、ペニスを擦すり射精を促す。映画は、男のオナニーを女に当てはめたものだから、あのような品のない幼稚なオナニーシーンが仕上がるのだ。

女自身が周到なオナニーを演出するなら、たとえば、室内のムードを整え、衣装と香水をそろえ、音楽を準備するだろう。そのうえで、ありとあらゆる手法を使ってオナニーの快楽をむさぼり尽くすだろう。これは決して夢想ではない。たとえば、江戸時代にみる張り型の豊富さ。女のオナニーが、貪欲きわまりないものであることを物語ってくれる。たとえその大方が、男を楽しませる「見せるオナニー」のための道具だったとしても、少なくとも女にはオナニーのバリエーションがたくさんあることを証明してくれるだろう。

ときどき勘違いしている男もいるようだが、女はこれっぽちも男のオナニーを見たいとは思っていない。よほど良い雰囲気になった場合、成り行きで一度くらいなら、男のオナニーを見てもかまわない――その程度しか見たくないのだ。何度も述べてきたが、女も女のカラダが見たいし、女のオナニーが見たいのだ。ただし、美しいオナニーシーンに限る。美しいカラダの女が、優雅で淫靡なオナニーをする。美しければ美しいほど、それを見た女は濡れるし、カラダがうずくのだ。

人間のメスは、オナニーに関して天才的だ。動物本来の人間のオナニー、つまりヴァギナを机の角などに擦り付ける行為。そして、男が望む形の(ポルノ映画のような)オナニー。そこから進化させた、自分なりの手法と、三種のオナニーをもつ。平素はヴァギナを擦り付けるだけのシンプルなオナニーをしている女でも、ほんとうに見たいのは、「進化させたオナニー」だ。乳房を揉み、それからヴァギナを撫でつけ、ラビアを開いてクリトリスを指で弄ぶ……。男に求められることで覚えたオナニーの手法を、アレンジしたものであり、それだけに優美で卑猥だ。

男は抜くために、女のオナニーを見る。しかし、女はイクために女のオナニーを眺めるわけではない。ただ、ただ淫靡なムードに浸りたくて、ずっと濡れていたくて、そして美しいものが見たくて、それで女のオナニーシーンを眺めるのだ。 (photo/Furuse model/Luliha)写真はクリックすると拡大します。

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コラム・女体はどこまでも作品である

プロ写真の撮影というのは、どんな場合でも、気軽にシャッターを押すということがない。きわめて面倒で大掛かりなのが、プロ撮影である。カメラが身近な器械だけに、写真は簡単なものと思われがちだが、出版に叶うだけの写真というものは、そんなに簡単なものではない――撮影に同行するようになり、初めて知ったことだ。

さらに写真というものは、見たものをそのまま撮ったからといって、それが作品になるということもない。なぜかといえば、「写真にどのように写っていて欲しいか」それを見る人は、頭に描く。そして、それから大きく外れると、期待はずれということになる。赤い夕焼けと思い込んで眺めていたとしても、じっさい写真に撮ってみれば、赤ではないことが多い。赤いと決め付けて眺めているから赤に見えるのだ。

それは小説を書くときも同じ。現実をのままを書けば、小説になる。そう思いこんでいる人も多い。しかし、現実を現実のまま書くなら「リアリティがない」と批判されることになる。「こうあるべきだ。次にこの人は、このような言動をするだろ」と、読者は期待する。その期待を大きくはずすと、共感のもてない話になってしまう。

そのことは、被写体になるときも同じだと知った。リラックスしているシーンを撮影するからと、本当に全身で脱力したなら、もう見るべき被写体ではなくなってしまう。くつろいでいるように見せながら、でも、しっかり筋肉でカラダを支え、「こうあるべき」美しいポーズを保っていなければならない。そうでなければ、プロの作品にはなりえない。

被写体――この見られる作品に、ふと思ったことがある。

それは女体は「作品」であるということ。見られる動物であり、見せる動物である、女のカラダ。神が創った「作品」でなくてなんであろうか。

写真/Fruse Keiichi)  

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コラム 性科学・お薦めの本

性科学の本。

多くの学者が著している。しかし、いずれも分厚く、気楽に読めるものは少ない。

文庫で出ており、内容も整然としているのは、ロルフ・デーゲンの『オルガスムスのうそ』あたりだろうか。この著者は、『フロイトのウソ』で、フロイトの“あら捜し”をした一人でもある。

オルガスムスのウソ (文春文庫)

著者:ロルフ デーゲン

オルガスムスのウソ (文春文庫)

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コラム・おっぱいの数は誰が決めた?

猫のおっぱいは、四対八個。しかし、ぜったい八個というのではなくて、九個ある猫もまま多い。この余分な一個(副乳)は、ふつうはお乳は出ない、形だけの乳である。

人間のおっぱいは、一対二個。「そんなこといまさら」と言われそうだが、しかし、二個と決め付けるわけにはいかない。明治時代の新聞(東京日日)では、「乳房六つの女」が話題になっている。記事には、いずれの乳首からも乳が分泌し、研究の余地があると云う。副乳は人間も例外ではないことがわかっている。しかし一般的な動物の副乳は、乳首が余分にあるだけなのだが……この新聞をそのまま信じるなら、「乳房」が余分にあることになるが、その真偽は定かではない。

人間のメスのおっぱいは、オスを釣る餌になるわけだが、しかし……明治時代の新聞のように、仮に六つも乳房があったとしたら、いざ裸になってみたとき、男はどんな反応をするものか、想像するまでもなさそうである。 (写真/Fruse Keiichi)写真はクリックすると拡大します。

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第十三話・女は誰のためにオナニーをする?

オナニー、つまりマスターベーションであり、自慰行為である。

動物もそれぞれオナニーをすることが報告されている。もちろん、猫もオナニーをする。それこそ個体差が大きく、そして遺伝や環境に大きく左右されるが、猫もたしかにオナニーをするのである。メスは、飼い主の腕や太腿に陰部をすりつけ、オスも同様にペニスを往復させることでオナニーをする。(すべての猫がオナニーをするわけではない。ごく一部の性欲旺盛な猫にかぎり、するのである)

猫は飼い主が大好きで、それで飼い主の体を拝借してオナニーをする。それでも、やはり「自慰行為」としてするのであって、他の誰かのためにするわけではない。そのあたりは人間のオスと同様である。

しかし――

人間のメスとなると、すこし事情が違ってくる。人間のメスがオナニーをするとき、すべての動機が自分のためにある、というわけではないのだ。

人間のメスのオナニーが、、自分だけのものでよかったなら、オナニーの手法はもっと単純なものに留まっていただろう。

一般的に「これが女のオナニー」とみなされているオナニーの手法は、じつは「男が見たい」スタイルであり、女はそれを知って、男のためにオナニーをしているのだ。見るからに淫靡な女のオナニーのスタイルは、男を刺激することを優先したオナニーであり、自分を刺激するため、それだけのスタイルではないのだ。(このあたりは、後にもう少し詳しく述べばければならないだろう)

女は見られる動物であり、見せる動物でもある。(写真/Fruse Keiichi) 写真はクリックすると拡大します。  

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